朦朧とした意識の中、アルコは牢屋の壁を見つめていた。
何とか生きてここへ帰ってくる事はできたものの、サキュバスに吸い取られた体の消耗は予想以上だった。
顔を触ってみようと腕を上げるが重い、少し触れただけで頬が酷く痩せこけてるのがわかる、
まるで重い病にかかったかのようだ。
それでも体が動かせるだけマシなのかもしれない、しかし、次はどうだろうか。
目が覚めた時、アルコの隣は空席で、ブランはいなかった。
最初は自分が気絶している間に運ばれただけで、しばらくしたら戻ってくるだろうと考えていた。
そう思ってから何時間も経つが、結局ブランは帰ってきていない。
ブランが、自分に名前を教えるのを躊躇った理由が、今わかった。
サキュバスにとって、人間は食事以外の何者でもない。
消耗品のように精を吸い取り、死んだら打ち棄て、また新しい獲物を連れてくる。
そのような循環の中にいる餌に、人としての名前なんてなんの意味もなかった。
アルコは、ブランが死んだ事を静かに受け入れた。
同時にブランの無念を晴らす為、自分が人として生きる為に、ここから逃げなければ、強い意志が心の中に沸いてきた。
幸い体は動く、このまま何もせずに死を受け入れる訳にはいかない。
視線は、鎖越しに自分を壁に縛り付けている手枷、
たった一つの鍵さえあればすぐにでも自分を解放してくれる、忌まわしい手枷に向けられていた。
「………開けっ………開けよ、こいつ!!」
弱り切った腕に力を込め、手枷を解こうと腕を開く。
だが鉄で出来た手枷は無慈悲に輝いたまま、微動だにせずアルコの両腕を拘束し続ける。
「畜生、諦めないからな、腕は壊れても死ぬよりはマシなんだからな!」
アルコは両腕を振り上げ、床へ何度も手枷を打ちつけた。
鎖が擦れる音が牢屋内に響くが、腕が傷ついただけで手枷はビクともしない。
それでも、アルコは何度も床に向かって手枷を叩き続けた。
何度も何度も、鉄の手枷を地面に叩きつける音が響く。
一心不乱に手枷を打ち続けるアルコに、牢屋内にいる住民の視線が集まりだした。
「おい………あいつ何やってるんだ?」
「気が狂ったんじゃないか、こんな環境だ、ほら前にもいただろ」
「あんな事をやって腕が痛くないのかね、血が流れてるじゃないか」
「やりたきゃやらせておけ、そのうち諦めて止めるだろ」
血だらけの腕をぐったりさせながら、アルコは床にへたり込んでいた。
傷口が手枷と擦れて酷く痛む、腕があがらない、腕全体が先ほどより重く感じる。
傷を多少つけただけで手枷は壊れる事なく、鎖も当然ちぎれる訳はなく、
今の自分の状況は先ほどと全く同じ、むしろ腕が傷ついた分悪化していた。
「ほらな、もう倒れこんじまった」
「ここから出るなんて最初から無理なんだよな、素直に現実を受け止めればいいのに」
周りからの揶揄の声が聞こえる、あれだけでかい騒音を出し続けたのだ、まぁ怒って当然だろう。
それでも何もしないお前らよりはマシだ、心の中で罵りの言葉を吐く。
そんな心のメッセージが届いたのか、ふと周りの雑音が止まった。
次の瞬間、牢屋と外を繋ぐ鉄格子が開いていく大きな音が鳴る。
目を向けると、一匹のサキュバスが新たな男を捕まえ、この牢屋へ運んできていた。
サキュバスは男を引きずりながら牢屋へ入ると、前にブランが座っていたアルコの隣の空席へと降ろした。
捕まえられた時に気絶したのだろう、運ばれてきた男は力なく両手をぶら下げ、そのまま床に崩れ落ちる。
サキュバスは取り出した首輪を付け、逃げないよう鎖の繋がった手枷を男へ装着すると、
血だらけのこちらの腕をわずかに見て、そのまま何事もなかったように外へと去っていった。
「ん………んん………」
しばらくして、運ばれてきた男が目を覚ました。
男はわずかにうめき声を上げ、体を起こし、辺りを見渡す。
牢屋内を見渡す間に、目を覚ましたばかりの男のぼんやりとした表情が、だんだんと驚きのものへと変わっていくのがわかった。
「なんだよここは、なんで俺はここにいるんだよ」
今の自分の状況が掴みかねているようで、男の口から自然と驚きの言葉が漏れる。
「というか何で裸なんだ、おまけにこの手枷はなんだよ!」
腕を拘束している自分の手枷を睨みつけ、男は大きな声で叫ぶ。
「ここはサキュバスの住処だよ、隣で大きな声を出すな、うるさい」
この状況に驚き、とまどっている男を見て、アルコはできるだけ丁寧に話しかけた。
ブランのように上手く優しい言葉を出せなかったせいか、男はこちらを睨みつけている。
「サキュバスの住処?」
男は何か思い当たる事があったのか、両手を自分の顔に添えてしばし考えこんだ。
「あ、思い出した、そういえば金持ちの家に盗みに入ってたら、
その金持ちがサキュバスに犯されてた所に、ばったり出くわしたんだ」
自分が何故こうなったのかを思い出し、男は腕を下ろした。
「で、なんだ、ここがあいつらの住処って事は、ここで俺はあの淫魔に何かされるのか?
あんたの手首みたいに拷問とかされて、そのまま嬲り殺されるとか」
男が少し痛々しそうに自分の手首を見ている事に、アルコは気づいた。
「これは俺が好きでやったんだ、気にしないでくれ。
お前を捕まえたサキュバス次第じゃ、望み通り拷問してくれて、体を酷く傷つけてくれるかも知れないけどな」
「どういう事だよ」
「その内わかる、サキュバスがこの牢屋に入ってきて、自分で捕まえた男を取りに来るから。
普通のサキュバスならそのまま犯って、精を吸い取られて、干涸らびて死ぬだけだ、安心してくれ」
「いや、安心できないだろ、そしたら俺は死ぬじゃないか」
「大丈夫、大事な獲物をすぐに殺したりしないさ、なんでも最近食糧不足らしいからな。
何回も、少しずつにわけて、奴らは俺達を搾り取っていくんだ、何回かは俺もわからないんだけどな」
ふと、アルコの脳裏に、今はいないブランの事が思い出された。
「そうならない為に、俺はここから逃げようと思うんだが、
まだ最初の関門である手枷を解く事すらできてない、笑っていいぞ」
アルコの説明に、男は意外な言葉を返した。
「誰が笑うかよ、俺だってそう簡単に死んでたまるか」
男は口に手を当てると、口の中から、一本の小さな針金を取り出した。
「あいつらに捕まった時、どうせこんな事だろうと思って針金を隠したんだ。
気絶してる間に呑み込むんじゃないかって不安はあったけどさ」
男は器用に針金を手枷の鍵穴に差し込むと、カチャカチャと動かし、あっさり鍵を開けた。
笑みを浮かべながら、男は解放され自由になった腕を見せつける。
「俺はマウロ、これでも外じゃ盗人をやってた。何なら、あんたの手枷も解いてやろうか?」
突然の事に驚きながらも、気づいたらアルコは腕を差し出し、名前を名乗っていた。
「アルコだ、是非とも解いてくれ」